ご挨拶

決意表明

拝啓

ますますご隆盛のこととお慶び申し上げます。

早いもので県議に当選させていただいて二十年が経ちました。この間、雨の降る日も雪の降る日も常にかわらず厚いご支援を賜り、誠にありがとうございます。あらためて衷心より感謝申し上げます。

私の家は代々現在の地で営農を生業とし、昭和の初期には門前の川に水車を設置し精米業を営んでおりました。先の大戦後の農地改革により殆どの農地を失いましたが現在まで細々と生活をつなぎ、二年前には代々の墓地の隣に土地を購入、そこに後援会事務所を移転し、先祖を祀りながら活動しています。曽祖父の源内は厳格で知られる一方、地元の神社や地域の公営墓地の造成に寄進するなど地域に貢献、今も定礎に記名が残っています。祖父は若くして他界しましたが、祖母ミサヲは糟屋郡の初代婦人会会長や須恵町の初代更生保護女性会の会長、菩提寺である清光寺(粕屋町)の初代女性総代を務めるなど女傑として名を残し、女手一つで父・昭幸を育てました。その昭幸は須恵町役場の課長をしていましたが、四十一歳で町政の刷新を唱え町長選に出馬、一度目は落選、四年後は妻の闘病のため見送りましたが、八年後に再度出馬、弔い合戦を制し以来三期十一年、須恵町の町長を務めました。

私は高校卒業後、住み込みで新聞配達をしながら二十歳の時に行政書士の資格を取得、十九から三年間サラリーマンを経験したのち、父の二度目の選挙を手伝い当選を見届け、二十四歳で個人事務所を開業いたしました。私が三十四歳の時、引退する水戸さかき県議(粕屋郡区)の後継として出馬、以来五期二十年、六期目の現在にいたります。

現在地を生家とし地元の小学校、中学校を卒業、福岡市内の私立大濠高校を卒業いたしました。二人の弟と一人の妹がおり、いずれも地元の小学校、中学校を卒業しており、私の同級生だけでなく、兄弟の同級生にもしばしば出会います。幼少期には家の前で川魚を捕り、野山をかけめぐり虫を捕まえる毎日でした。田畑は随分と減りましたが、生まれ育った山河や育てていただいた地域の人々のために引き続き恥ずかしくない働きをし、いずれは事務所隣の先祖の墓に、文字通り骨を埋める覚悟です。

さて、十二年前、当時の渡辺具能代議士が政界を引退される際、麻生太郎元総理に問われ、後継は吉松だと指名していただいたにもかかわらず、私の力不足と決断力の不足から、福岡4区に一日も住んだことのない、前任の代議士(雇用者)が認めない候補者が自民党の公認となることとなりました。以来、高速道路の耐震補強工事の手抜き工事事件で施工業者をかばったり、新型コロナ対策のため政府が帰省を控えるよう呼びかけを徹底している中、選挙区に帰りお盆回りを行ったり、公職選挙法違反となる線香代を配ったりしたという不祥事が週刊文春やデイリー新潮に掲載される事態となりました。近年では霊感商法で被害総額千二百三十七億円と指摘されている旧統一教会との親交を隠していた事が報道されたことは記憶に新しいところです。この度重なる不祥事には私を含めた四区内の自民党県議四人全員も憤慨しており、以前より候補者の差し替えの必要性を党に訴えてきたところです。

先の選挙で地元を廻った折、「地元で生まれ育ち郷土に愛着のある人に国政を担ってほしい」「誰か代わりはいないのか?」との多くの声をいただきました。八十半ばのご婦人が「やはり吉松さんは決断せんのかねー。私もいつまでも待てないけど・・・」と悲しげに語られたという話を耳にした時には身につまされる思いでした。

また、私たち県議を応援する支援者が目に見えない嫌がらせを受けている現状も肌に感じます。既に十一年、支援者の皆様に失望の日々を送らせてしまいました。これまで資金が足りない、党の理解が得られないと言い訳をしてまいりましたが、私に一番足りなかったのは決断する勇気だったと思い至りました。自民党には現職優先の不文律があり、いばらの道を歩むことになることと覚悟しております。しかし、このまま有権者に野党以外に選ぶことができる選択肢を示せないでは、地元の自民党県議として支援者の皆様に顔向けができません。よって、私はここに、乾坤一擲の決意にて国政に良識を取り戻す決意をいたしました。

皆様にはそれぞれお立場もありご迷惑をおかけすることは心苦しくありますが、以上ご斟酌いただき、何卒、今一度お力をお貸しいただきたく、ここに伏してお願い申し上げる次第です。末筆となりましたが、皆様の益々のご健康、ご多幸を心よりお祈り申し上げます。

敬具

吉松もとあき